母は自分の価値観で生きる人だと思います。
①自分が必死に子育てをしてきたこと
②自分がいいと思う習い事や塾に、子供を通わせていたこと
③自分が働くと決めてキャリアウーマンをつらぬいたこと
④自分と同じように、子供たちにも国公立大に行ってもらうこと
などなど、挙げればいろいろあります。
しかし、それらは母の価値観であって、子供(私)の価値観ではありませんでした。
母にかわいがられたい一心で母の言うことを聞いてきた私。
指示待ち人間完成までをつづります。
①自分が必死に子育てをしてきたこと
母からは、必死に子育てしてきたことをアピールされたことが何度もあります。
たしかに毎日ご飯を作ってくれて、家事をしてくれて、お弁当も毎日作ってもらっていました。
フルタイムの仕事をしながらの家事と子育ては体力的にもしんどかったに違いありません。
しかし、私には小さい頃に母と遊んだ記憶、抱っこしてもらった記憶、一緒にお風呂に入った記憶がありません。
フルタイムの仕事なんかせず、一緒にガールズトークをしたかったなぁと今になって思いますが、たぶん母は女性特有のコミュニケーションや、女性性の高いファッションやメイクはどちらかといえば毛嫌いしていたように思います。
今は、逆にコミュニケーションがなくてよかったとも思えますが、子供の頃の自分を回想すると、もっと一緒にいたかったなぁというのが正直な思いです。
②自分がいいと思う習い事や塾に、子供を通わせていたこと
母は高学歴思考だったので、小学受験をした記憶があります。
結局合格しなかったのか、公立小学校に通いました。
小学校の成績はお世辞にもいいとはいえないものでした。
計算はいまだに遅いし、漢字にも苦戦した記憶があり、テストの点は70点くらいが多かったような気がします。
小学校高学年になって、母が家庭教師になって勉強を教わりました。(母は教育学科卒で、塾での講師経験があります)
民間の模擬試験を受けに行きました。
NHK基礎英語を聞いていた記憶もあります。
どれも本人の意思ではないし、必要性もわからなかったのでやる気はありませんでした。
基礎英語なんて、何で聞いているのかわからず、そもそも英語がわからんし…と、後でついて言えるように、毎回英語の読み方を英語文章の上にカタカナで書き入れていました。
本当に無意味ですよね。
英語の勉強の仕方をレクチャーして欲しかったなぁと思うものの、母の家庭教師は「母と一緒に過ごす時間」ということで嫌ではなかったような気がします。
小学生の時の習い事はピアノとスイミング。
3年生の時に引っ越しをしてスイミングから習字に変わりました。
習字はあまり好きではありませんでした。
ピアノの先生も厳しかったので相性があまり良くなかった気がします。
ピアノは、あまり練習をせずに行くこともしょっちゅうで、暗譜ができませんでした。ピアノもあまり楽しく通っていなかったということです。
妹は、やりたい習い事を挙げていたそうですが、却下されていたそう。
私はそんなもんだとすでに思っていたので、ほかの世界があるなんて考えたこともありませんでした。
すでに視野が狭くなっている証拠ですね。
中学に入ってから通い始めた塾は、市内でナンバーワンの人気進学塾でした。
③自分が働くと決めてキャリアウーマンをつらぬいたこと
小学校の時は、私たちが学校に行っている間にフリーの仕事をしていた母。
小学校高学年だったか、中学校以降は、フルタイム勤務をするようになりました。
大人になってから、母の勤務地がめちゃくちゃ遠くになるということが一度だけあり、「そこまでしてそこに通わなくちゃいけないの?」私はそう思いました。
家族の負担も絶対増えるし、本心では辞めてほしいと思っていました。
でも、断片的には言えても、大きく反対とは言えませんでした。
「仕事があるから」
「休めないから」
という理由で、学校行事などに来てもらえないことも増えて大きくなっていたとはいえ、寂しく思ったのを覚えています。
私たちの学費のためにフルタイムに変えたであろうことは今ならわかりますが、当時の私は「仕事があるから行けなくて残念。行きたかったわ」と、ひとこと聞きたかったですね。
④自分と同じように、子供たちにも国公立大に行ってもらうこと
中学生になって、成績がもろに順位表記され、点数化されてから、私の苦悩はさらに増えました。
テストのたびに、いまいちな点数を持って家に帰るのが憂鬱だったのです。
怒られるからです。
家の前でうろうろしたことさえあります。
中学1年のときはそこそこよかった成績も、周りが勉強しだしたことと年数を積むにつれ、疲れと限界を感じるようになり、成績はみるみる落ちていきました。
高校はそこそこの進学校へ。
そこそことはいえ進学校なので、レベルはそれなりに高く、入学してからさらに落ちこぼれました。
大学は、国公立大か、それに見合う私立大でなければ意味がないという母のポリシーのもと、私には学部を自由に選ぶという選択肢はありませんでした。
「選択肢で与えられた大学の中ので比較的レベルの低そうな学科を選ぶ」という学部と学校選びです。
大学って、やりたいことを勉強するために行くんだよね?今ならそう思うますが、当時の私は必死でした。
必死でしたが、やはり成績は伸びず、センター試験は完敗。
国公立の道は閉ざされ、私立大も厳しいし、それ以下の大学は受けさせてもらえないし、短大しか道はありませんでした。
短大といっても、レベルの高い短大は不合格。
ことごとく母の思う道からは外れ、それに洗脳されていた私は、自分の実力を棚にあげて「なんでこんな学校やねん」と上から目線だった気がします。
私はできないという自己否定よりも見下すことによる自己防衛だったと思います。
レールに乗った結果、何もできないプライドたか子に。指示待ち人間の完成。
大学受験でそんなこんなを経験した私は、何もできないのに、プライドだけは高い、扱いにくい女子になっていたと思います。
母の思う娘になるために必死だったんですけどね。
そちらではない仕上がりでした。
母の言う通り進むことで自分で決めることをせずに生きてきたので、何も決められないし、一人では何もできません。
1人で考えることができない大人になりましてた。
まさに、指示待ち人間の出来上がりです。
これは、社会に出てからすごく苦労しました。
指示待ち人間の苦悩についてはまた次回に。
本日も長文をお読みくださりありがとうございました。